ぴんくのねずみです☆
今日は
『サクラメント観光』のお話です!
ワイントレインでアメリカのワインの聖地ナパバレーをめぐる旅#6
こちらの記事の続きです。
客船を改装したホテル・デルタキングを下船して、川沿いを少しお散歩。ブランチする前には人通りほぼなくガラガラだったオールドタウンですが、昼前には少しずつ人出が増え、賑わい始めていました。
次にやってきたのはこちらです。
カリフォルニア州立鉄道博物館
入場料は大人ひとり12ドル。アメリカの有名な鉄道博物館のひとつとして常に名前が挙がるのが、このカリフォルニア州立鉄道博物館だそうです。
入館前、外観からすでに大きな施設だということは分かっていましたが、予想をはるかに上回る充実の展示内容でした。
一階にはたくさんの列車の展示があり、マンモスのように巨大な列車に終始圧倒されっぱなしでした。(マンモス知らんけど…)
また、実際に車内に入って寝台列車や食堂車を見学するというアトラクションもあります。寝台列車の方は実際にそれっぽく振動していて臨場感たっぷり、当時の乗客の気分が味わえました。
車内には係の人がいるので疑問があれば丁寧に説明してくれます。これらの寝台列車はおよそ今から80年から40年前くらいに活躍していたそうです。
2階にはプラレールやジオラマの展示、子供たちが体を動かして遊べるようなキッズスペースもありました。
中でも印象深かった展示の一つに、カリフォルニアの鉄道建設に関わった中国人労働者に関する記述がありました。
以下、アメリカの鉄道の歴史について少し調べてみました。
北米大陸を横断する初の鉄道路線は南北戦争のさなかに建設が始められ、1869年5月10日に完成したとされています。この時代、まだダイナマイトは一般的ではありません。しかし、アメリカ大陸を横断させるにはロッキー山脈とシェラネバダ山脈を越えなければならず、当時ダイナマイトの代わりに使われたのは多くの“外国人労働者の犠牲”でした。
東からはネブラスカ州オマハを起点にユニオン・パシフィック鉄道が、西はサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が東に向かって敷設をすすめ、1869年に双方はユタ州プロモントリーというところで出会い、大陸横断鉄道は完成します。
“太平洋鉄道法”に基づいて、1マイル建設ごとにその両側の土地を10平方マイルもらえることになっていたので、両社は競うように工事を進めます。安く、よく働く労働力を求めた結果、東ルートはアイルランド、西は中国からの移民がおもに動員されました。ちなみにこのとき黒人労働者ではなく中国人労働者が選ばれたのは、南北戦争後に黒人奴隷制が廃止され黒人奴隷の売買が禁止されたからでした。詐欺同然の勧誘で中国から12000人ほどの労働者をつれてきて、超過酷な環境で1日12時間労働を強いたそうです。(このころの日本はまだ海外渡航を行っていなかったから助かったとか…ちょうどペリー来航のあたりです。)
ところで、西からの敷設を企画した中心人物にリーランド・スタンフォードがいました。もともとは東部の弁護士で、ゴールドラッシュの流れでカリフォルニアにやってきて卸売商になった人物です。スタンフォードは“泥棒男爵”と呼ばれるほど、やりたい放題ブラックな手法で産業を独占、巨万の富を築きます。セントラル・パシフィック鉄道にも投資して社長になり、東西鉄道をつなぐ式典で最後のゴールデンスパイクを打ちました。(彼は後にあのスタンフォード大学の創設者となるわけですが…そのことについてはまた別の記事でご紹介します)
こちらの記事も非常に参考になりました
⇒北米大陸横断鉄道を作った中国人たち
いやぁ、実に興味深い博物館でした。鉄道の歴史から、当時のアメリカの社会情勢が読み取れます。もし労働者として選ばれたのが日本人だったら…日本はいまと違った歴史を歩んでいたのかもしれません。
サクラメントの近くのサンフランシスコには、北米でもトップを競う大きさの中華街がありますが、鉄道完成後に失業した中国人たちの多くがそこへ移り住んだと言われています。
以前メンフィスにある博物館で、アメリカの奴隷制度などの歴史について学びましたが、南部だけでなくアメリカには各地でこのような歴史を残した博物館があることを知り、アメリカのまた新たな一面を知った気がしました。
アメリカのいろんな顔を知るたびに、「このころの日本はどんな国だったんだろう?自分は日本の歴史も知らないな」ということを気づかされます。
せっかくアメリカで視野を広げるきっかけを得ているので、日本に帰ったら日本のことをもっと勉強したいなと思います。
つづく~
➡ワイントレインでアメリカのワインの聖地ナパバレーをめぐる旅の記事一覧