ぴんくのねずみです☆
今日は
『スタンフォード大学』のお話です!
ワイントレインでアメリカのワインの聖地ナパバレーをめぐる旅#13
こちらの記事の続きです。
大満足のラーメン屋を出て、車に戻ります。
この旅では電気自動車の充電に頭を悩まされ続けましたが、本日夕方にはある程度充電した状態で返却する必要がありました。(この時すでに40%程度)
しかもまだ目的地までは少しの距離があります。
最後の望みをかけ、再び近くのEVチャージャーを検索してみると…
「スタンフォード大学の中にあるかも?」
というわけで、その後車でスタンフォード大学のビジターセンターへ向かいました。
スタンフォード大学の門をくぐり、しばらく車を走らせます。キャンパスの広さは993万坪。右半分には理系の学部、左半分には文科系の学部のキャンパスがあるそうですが、敷地が広大すぎて右も左もしばらくはバカンス地でみるようなきれいなヤシの木の景色が続いていました。
ビジターセンターの駐車場にたどり着きました。
EVチャージャーありました!!しかも故障せず、ちゃんと動いていました。さすがスタンフォードです!!(充電が遅いタイプで結局ほとんど充電できませんでしたが。。。)
ビジターセンター内にはこちらの馬の写真が飾られていました。これはスタンフォード大学の創設者エドワード・スタンフォードがどんな人物だったかを知るひとつのヒント、“動く馬”と呼ばれる作品です。
エドワードスタンフォードについては、鉄道博物館の記事でも少し触れましたが、ここで少しおさらい…
スタンフォードはもともと東海岸で弁護士をしていましたが、ゴールドラッシュを機に西海岸に移り住み、そこで鉱夫相手の雑貨店を開きます。数年後、妻を迎えに一度東海岸に戻りますが、カリフォルニアの方が勢いがあると判断し妻とともにサクラメントに移住、そこで大きな商取引に携わりました。
その後カリフォルニアで莫大な富を築き、泥棒男爵とまで呼ばれたスタンフォード。セントラルパシフィック鉄道の最初の機関車には、彼への敬意を表してGov.stanfordという名前がつけられています。
しかし、順風満帆に見える生活を送っていた彼に、大きな悲劇が襲いかかります。ヨーロッパ旅行中に一人息子を病気で亡くしてしまうのです。15歳でした。
最愛の息子を亡くしたスタンフォード夫妻。その後、息子の名前を永遠に世に残すため、大学設立へ向けて行動をおこします。
スタンフォードの名言に”Knowledge is power.(知識こそ力なり)”というものがあります。また、“The children of California shall be our children.(カリフォルニアの子供たちは、私たちの子供たちである)”とも言っていて、息子に託したかった夢を次世代の教育という形で実現させました。
そして、それが今のスタンフォード大学、正式名称をリーランド・スタンフォード・ジュニア大学といいます。
さて、”動く馬”に関してですが…
スタンフォードには夢がありました。それは”世界一の競走馬を育てること”で、夢の実現に向け200頭もの馬を保有していたといわれています。そんな馬好きの彼の疑問の一つに、「走る馬の脚は同時に4本地面から離れるか?」というものがありました。現代人の感覚から言えば、「え?普通にありそうじゃない?」と思えますが、それは我々が写真や映像で馬が走るシーンを見たことがあるからで、当時の人々にとってそれは未知のことだったようです。
スタンフォードはエドワードマイブリッジという写真家を呼び寄せ、走る馬の足の動きを写真に撮るように命じます。しかし当時の写真技術では馬の動きは速すぎて、まずカメラを精度を大きく上げる必要がありました。そのプロジェクトには長い年月を要しましたが、スタンフォードの資金力と好奇心に後押しされて、エドワードブリッジはついに馬が走る様子を連続写真に収めることに成功します。それがこの“動く馬”のストーリーでした。そしてこの技術を応用し、のちに映画が生まれます。
鉄道博物館訪問をきっかけに、スタンフォードについて調べるほど、彼が世に残したものの大きさに驚かされました。
ところでキャンパスを散策中、オープンキャンパスに参加してると思しき日本人の高校生グループに遭遇しました。みんな表情がキラキラ、眩しかったです。(いったいどんな人生を歩んできたら17~18歳くらいでスタンフォードに見学に行こうってなるのか…)
最後に売店によってスタンフォードグッズを買いました。
ありがたすぎて使える気がしないスタンフォードノート…神棚にでも供えておこうかなと思っています。
つづく~
➡ワイントレインでアメリカのワインの聖地ナパバレーをめぐる旅の記事一覧